真言宗豊山派の寺院 新井山梅照院

梅照院縁起

梅照院の由来

永禄年間における梅照院

永禄年間に入りし時、総州(相模国)より沙門行春(僧)が、行脚の途中に訪れた新井の村に来たり。
雑木林に囲まれ、緑溢れ、水が湧き出る新井の地、心豊かな新井の人々に邂逅した。奇しくもこの新井の地、嘗ての争乱で四散し痛手を追った一族の定住の村、行春は討伐し賊害した一族の臣の出、新井の人々は、行春の出自に問わず、かつての痛みを水に流し慈しみ深く迎え入れた。
行春は、新井の人々の人となりに深く感銘を受け、この地こそ有縁の地と定め、草案を結び、日夜真言の行法を怠らず勤めていた。
或夜、庭前の老梅の梢から、光明がかがやき渡っているのを見て不思議に思い、翌日、里人に尋ねてみると、一同口を揃えて同じ光を見たというので杣人(きこり)に梅の木を詮索(さぐら)せてみると、果して梢の空洞から、ニ仏一体の尊像が現れた。一同の中に名を同名とする新田一門一族の者達がこれを見て、この御佛こそは正しく新田家伝来の守り本尊であることを知り、その奇縁に感激して一宇を建立した。梅から光明が照りかがやいたことに因んで梅照院(ばいしょういん)と号したと伝えられている。

明治時代初期における梅照院

明治元年九月二十三年の夜、境内から火を失つし、本堂その他を灰燼に歸せしめた。當時住職亮海和上は身を拠にして辛じて本尊を厨子共奉持して避難したが、火の手が早くて佛具一切を救出できなかった。かかる災厄にも拘らず参拝者が絶えないので、同年十月再建に着手した。
この時の本堂は八間四面で、これに修復を加えたものが、空襲までの本堂である。
棟上は明治五年八月中旬、中野村の火消人足の手で賑かに擧行された。

昭和初期における梅照院

人々の思いにより再建される梅照院

「昭和二十一年五月廿五日の空襲で建造物初め境内の樹木等ことごとく灰燼に歸し、昔のおもかげなく燒土と化した。幸い本尊藥師如來その他の重要品は住職初め關係者の献身的努力に由つて救い出すことが出來た。(昭和廿九年 代聖道住職記より)」
江戸消防記念会第九區奉納額
江戸消防記念会第九區奉納額記念撮影

梅照院の尊称

治眼薬師

寛永六年(1629年)徳川二代将軍秀忠公の第五女和子の方【後に後水尾天皇の中宮となられ、東福門院と称せられた】が、悪質な眼病にかかられた。
父君秀忠公初め側近の人々が大いに憂慮して、名医、名薬、祈祷八方手を尽くしたが効果がなく、万策つきた時、当御本尊の霊験あらたかなるを聞き傳えられたので、人を遣して当御本尊に祈願せしめた。
果せるかな、さしもの難病も全く快癒したので、大いに悦び、多くの御礼を賜り物として寄贈された。
このことは、忽ち、天下にひろまり、江戸はもとより、全国各地から参詣者が織るが如き有様となった。
江戸時代の近在は、人家がきわめて稀れで、道の両側は鬱蒼たる竹藪や楢、柏、樫、欅などの雑木林で蔽われて見晴らしの悪い鬱陶しい路が続いていたことから、多くの参拝者を集わせる当院の本尊の霊験灼然であることがうかがえる。
この人の往来により、当院は治願薬師(ぢがんやくし・ちがんやくし)と呼ばれていた。

子育薬師

元和三年(1617)、当時の第五代住職玄鏡(げんきょう)が、或夜室内にわかに明るくなり、香氣馥郁としてあたりにみなぎると思うと、薬師如来が現れて御手に瑠璃の壺を持ち、玄鏡に告げ曰く、「汝、日頃の信心に由り神丹を與う、あまねく歳十五以下の童子の難病者に施與すべし」と瑠璃の壺中より法軌を授與されたと見て夢さめた。
不思議に思って早速法軌の通り製薬(薬の処方箋)して、難病の小児に施すと果してよく効いて治らない者が一人もいない。
これを夢想丸(むそうがん)と称した。このことを聞き傳えて遠近の里人は踵を接して参詣し、夢想丸を求めた。
治った者はお禮参りに奉納する者が多く、往来する人々によって、常に門前市をなすようになった。
その後、當山江戸時代中興第六世朝曇和上が子育薬師を宣傳したことにより、江戸時代大いに人の往来が行われた。
この頃、この人の往来により、当院は治願薬師(ぢがんやくし・ちがんやくし)・子育薬師(こそだてやくし)と呼ばれていた。

梅照院の御本尊

御本尊

足利尊氏の乱の折、上野國大田の金山(かなやま)に新田郡一圓を領していた。
新田一族は軍事にいとまがなく、挙兵のため、金山城に新田義興((よしおき)義貞の二男)が居城を治めるとき、本尊を宝庫におさめきりにしていた。
或夕暮、宝庫の屋上に光明が輝き渡ると見るまにその光りが、いずこかへ消え去った。家臣一同は不思議に思い、
宝庫に入って御厨子をあらためて見ると如来の尊像がなくなっているので驚いて義興にこのことを告げた。
義興は大いに驚歎して、家臣に命じて詮索させたが、遂には見出すことができなかった。
その夜、子ノ刻(午前零時から一時頃)、敵の計謀で、城中残らず焼失したと傳わる。
その後義興は、謀殺にあい船中で自刀した。一門一族四散した人々の一部が、新井の庄に定住したのである。
本尊は元新田家代々の守護仏である。
新田一族は薬師如来信仰の家系が多く、それぞれの家系の薬師如来の尊像が存在した。
四散した一門一族が各御本尊を持ち各地へ定住したことと、新田一門一族では代々各世代で同名を継承し、歴史上同姓同名が多く存在したことにより、その後の歴史を読み解く上で、混乱させてきた。
新田一門一族の中でも、一仏一体の薬師如来金佛も発見されており、当院の御本尊の示現と混同されてきた。
さらには、当院の御本尊の歴史は各時代に編纂された多くの書籍により、種々異論を書きそえられ、示現を書き変え未代の者が自らの物と主張する者まで現れた。
これらのことから、当御本尊の御威光の強さとその人気の高さを伺い知れる。

御姿

梅照院の御本尊のお姿は、二つの仏が両面に配されており、
薬師如来・如意輪観音の二仏一体の尊像であり、国内でも非常に稀な御尊像である。
丈一寸八分黄金仏の坐像で弘法大師の作と伝えられている。
御尊像は秘仏とされる。

薬師如来由来

薬師如来という仏様は、人々を苦しみから救い出したいと「十二大願」を立てて、苦行に励まれました。
その苦行によって、全ての衆生を無明の病疾から救い出すことができる仏となられました。
病や苦悩を癒すことにすぐれている薬師如来は「医王」とも呼ばれ、阿弥陀如来の西方極楽浄土と対をなす東方浄瑠璃という浄土に住され、現世での肉体的な病苦のみならず、来世にまで福徳・利楽を与えて下さいます。

如意輪観音由来

仏教には執着や欲望など煩悩の苦しみから逃れられない六つの世界、六道について説かれており、生前の行いなどによってどの世界に生まれ変わるか決まるとされております。
この六道の輪廻から抜け出すことが仏教における目標でもあります。
如意輪観音にはそれぞれの世界で苦しむ人々を救うために六本の腕があります。
そして、その手には名前の由来でもある如意宝珠と、法輪をお持ちです。
智慧や財宝、福徳をもたらす如意宝珠と、煩悩を打ち砕く法輪で人々の苦しみを取り除き幸せに導いてくれます。
頬杖をついているお姿は、多くの人々を救うために常に思案されておられるのです。

梅照院の正式名称

新井山梅照院薬王寺

御本尊の示現が霊験あらたかなことから、梅照院と天正14年より号して以来、当山は建立時、境内地に日本一ともいわれた傘松を有しており、高松山梅照院薬王寺(こうしょうざんばいしょういんやくおうじ)といった。
世の移り変わりにより、多くの方々に愛されるがゆえの、地名の新井(あらい)の呼び名と合わさり、通称を新井薬師との愛称で呼ばれるように桃山時代から江戸時代にかけて定着した。
住職恭俊和尚の頃、古松の消えたこの地、愛される新井(あらい)の地名からとって、新井山(あらいざん)と改められ現在(令和)に至る。
よって正式名称を新井山梅照院薬王寺(あらいざんばいしょういんやくおうじ)という。
霊験あらたかな二仏一体の御本尊により、名称も一体となし、寺院(名称)と愛称とが合わさり、新井薬師梅照院となった。
所在地
中野区新井5―3―5
宗派
真言宗豊山派
本尊
薬師瑠璃光如来・如意輪観世音菩薩(二仏一体の尊像)
創建年
天正14年
開基
行基(ぎょうき)
中興
朝曇(ちょううん)・聖道(しょうどう)
正式名
新井山梅照院薬王寺(あらいざんばいしょういんやくおうじ)
別称
新井薬師 梅照院(あらいやくし ばいしょういん)
治願薬師(ちがんやくし・ぢがんやくし)・子育薬師(こそだてやくし)
札所等
御府内八十八ヶ所 71番
寺紋
梅鉢

アクセス